切腹の作法とは

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今回は切腹の作法についてです。

「自腹を切る」「詰腹を切る」「切腹もの」などの言葉が今でも使われますが、何らかの責任を負う行為に「切腹」という言葉が用いられます。

自らの命を絶つ切腹を称賛は出来ませんが、古くから受け継がれている日本人の精神の一つとして、切腹は長い歴史の中に存在し、そして江戸時代には作法が確立されました。

1.切腹の登場とその歴史

1-1.平安時代~鎌倉時代

平安時代に防備として武士という戦闘集団が形成され、やがてその戦闘力が認められ、平安末期には朝廷内でも発言力を強めていきます。
この頃から、武士の間では敗戦の場合の天晴(あっぱれ)な死に様として自決が注目されました。

しかしまだ切腹が最も名誉ある死に方ではなく、敵と刺し違えたり、刀を口に加えて馬から飛び降りたり、鎧を着て海に飛び込んだりすることも切腹と同列でした。
しかしこの平安時代から鎌倉時代にかけて、生命よりも「名」を惜しまなければならない武士のあり方が定着していきました。

1-2.戦国時代

戦国時代になると、より高い戦闘力を獲得するために、「武士はこうあるべき」という武士の生き様が問われ、戦死を恐れないほどの覚悟を求められました。まだ武士道は確立していませんが、戦死を含めた武士の死に様が「名」を残すことにつながりました。

戦国時代前期では、切腹は首斬りよりも武士らしい死に方として認識されるようになっていました。

羽柴秀吉は、中国攻めの際に、敵の城を総攻撃で落城させるのではなく、城主の切腹で開城を認めるという戦術を取りました。
この時に清水宗治が堂々とした見事な切腹をしたことが評判となり、以降はこの宗治の作法を倣っていくこととなります。

室町時代中期から、主君の死に殉じて切腹をする「追腹」が増えていきました。

1-3.江戸時代

江戸時代では武士は身分制度の最上位であり、武士は厳格に品格を保たなければならないとされ「武士道」が確立されていきました。
そして「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」と説く「葉隠」の登場により、武士はいつでも死ぬ覚悟を要求されるようになっていきます。

江戸時代初期の動乱の時代が終わると、切腹の多くが主君への殉死となっていきます。しかし殉死があまりにも多くなり、幕府は殉死を禁ずる法令を出しています。

武士道が確立されることで、切腹の作法も確立され、手順を細かく記した文書が残されています。
その後幕末まで動乱はなく、また殉死もなくなったので、切腹は赤穂事件のような刑罰として一般的になっていきました。

1-4.幕末~

幕末は250年ぶりの動乱の時代であり、刑罰以外でも再び切腹が随所に見られるようになります。
刑罰としての切腹もまだ多く、新撰組の中では武士出身ではない者もいたものの、隊の規律に背く者には切腹が命ぜられました。

明治に入ると、刑罰が見直され、1870年に政府は「新律綱領(しんりつこうりょう)」を制定し、これにより死刑は斬首と絞首に限定され、1880年の「死刑執行法」が公布されることで刑罰としての切腹はなくなりました。

しかしその後も終戦まで、切腹の伝統は受け継がれ続けました。

2.切腹の作法

切腹の作法は時代によって様々でしたが、ここでは江戸時代に確立された作法について説明します。

2―1.切腹場所

屋内、屋外どちらも背面に屏風か衝立を設置します。

屋内で切腹する場合は、畳を裏返した上に布団を敷きます。この布団は切腹後には焼却処分されます。
屋外で切腹する場合は、座敷や廊下に面した庭に畳が敷かれます。切腹人の身分により1~3畳までありました。

畳の前には加工された三宝が、刳形(くりかた)のない面が前方に向けて置かれ、これを「逆礼」といいます。
切腹人の身分によっては、辞世の句を詠むための短冊と筆、硯が用意されます。
脇差しは、白鞘か鞘のない刀身だけの状態で、刀身だけの場合は奉書紙で刀を包みます。(江戸時代では、実際に腹を切るのは稀だった。)

2-2.切腹に立ち会う人達

介錯人
切腹人が腹を切った後に首を落とす「介錯(かいしゃく)」をする武士。
屋内、屋外問わず足袋を履き、はちまきをして股立ちをとります。緊張を強いられる役目なので、江戸時代には予備の介錯人がいました。

検使役
切腹人が切腹を果たし本懐を遂げたことをあらためる役。複数人立ち合うこともあります。

2-3.切腹の支度

切腹人は、身を清めるための沐浴を済ませ、浅葱色か白の裃を左前で着用します。
髷は下げ、介錯しやすくするためにうなじの上で切り揃えます。
足は、動揺によるつまずきなどを避けるために足袋などは履かず裸足です。

2-4.着座

切腹人が切腹場所に着座すると、辞世の句を書きます。辞世の句は、事前に考えておくのが礼儀でした。
介錯人は切腹人の左後ろに立ち、切腹人は自分がどのように腹を切るつもりか介錯人に伝えます。介錯のタイミングは切腹人が指定出来ました。

2-5.脱衣

裃をはね上げます。
左前になっている左の褄(つま)を左手で、右の褄を右手で開き腹を出します。
また、上半身裸になることもありました。

三宝を引き寄せ、置いてある脇差しを手にします。
そのあと三宝を後ろに置きます。
三宝を腰にあてがう方法もあります。これは、腹筋に力を込めやすい姿勢にするため、切腹後に後ろに倒れないようにするためなどが理由。

2-6.切腹と介錯

切腹人が左脇に刃を突き立て、右に引きます。それを見届けて介錯人が首を落とします。
首を落とす際には、首が飛んでしまうのを避けるため、介錯人は首を完全に切り落とすのではなく、皮を三寸ばかり残して、首の皮一枚で繋がった状態に切るのが作法とされました。
そのため、介錯人には相当な技術が要求されました。

2-7.検視

検使役が、切り落とされた首を確認して切腹は終了します。
通常は10~15分で行程が終わったそうです。

3.様々な切腹と、腹の切り方

ひとくちに切腹といいますが、なぜ切腹をするかによってその言葉があります。
死した主君に忠儀を立てて冥土まで追いかける意味で切腹することを「追腹」といいます。
何らかの責任をとって切腹することを「詰腹」。
理不尽な命令での切腹や、誰かへの抗議のために切腹することを「無念腹」といい、この場合は腹を切ったあとに内臓を外に引きずり出すこともありました。しかしこれは無作法とされています。

腹の切り方にもいくつか方法があります。
一般的なのは横にまっすぐ切る方法で、これを「一文字腹」といいます。他に「十文字腹」がありますが、これは十文字に切るのではなく、横に切ったあとにそのまま上に切るものです。

幕末の有名な切腹の一つに、武市半平太の三文字割腹の法があります。
これは、誰も成しえなかった切腹の方法で、武市半平太はこれを成し遂げ、前のめりになったために首が落とせず、介錯人二名が両脇から心臓を刺して絶命したとされています。

今回は切腹の作法について紹介しました。
少々恐ろしい表現も用いましたが、切腹はかつてたしかに日本人の伝統として存在しました。

切腹をすると凄まじい激痛に襲われますが、それを楽にさせるのが首を落とす介錯人の役目です。
しかし江戸時代には、動乱の時代が終わった中期から幕末までの間は、本当に腹を切るのではなく、扇子を当てるだけで首を落としたという時代もありました。

【参考文献】

切腹で読む日本史     綜合図書

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